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コラムその37 「雑草」
2017/01/23 06:47

「奇跡とは起きるものではない、起こすものだ」

1985年3月、のちに「芦毛の怪物」と呼ばれる馬がこの世に生を受けた。体も細く痩せ、右前脚は大きく外向し、産まれた時から大きなハンディキャップを背負っていた。しかしこの馬がこれから数々の奇跡を起こす事となる。本日の名馬烈伝はオグリキャップ。伝説となった彼の物語だ。

笠松競馬場の鷲見厩舎に入厩したオグリキャップ。厩舎の心配をよそに彼は食欲旺盛だった。飼い葉だけでなく、雑草まで食べた。産まれた当初心配された体の細さは解消され、右前脚の外向も厩舎の努力によって、成長と共に良くなっていった。こうしてデビューを迎えたオグリは、持ち前の低い姿勢と地を這うようなストライドで笠松競馬場を躍動した。笠松時代の成績(10.2.0.0)がその活躍を物語る。
こいつは怪物だ。笠松で終わらせてはいけない、との声を受けオグリは中央競馬へ戦いの場を移した。

こうして中央競馬へ移籍したオグリキャップ。笠松はダートコース。当初懸念されていた芝コースへの適性だが、そんな心配を払拭するかのようにオグリは勝ちまくった。なんと中央移籍緒戦を含むG3を3勝、G2を3勝の合わせて6連勝をやってのけた。圧倒的な強さだった。天性の地を這うフォーム、そして他馬が来ると、耳を絞り顎を突き出し負けん気の強さを出すその勝負根性は中央競馬でも十分に通用したのであった。オグリは決して良血馬では無い。いわゆる雑草魂だ。その年に勢いのまま有馬記念を制覇し、その後もマイルCS、安田記念と順調にG1タイトルを重ねていった。しかし彼にも挫折が訪れる。オグリは90年宝塚記念後、故障に悩まされた。両前脚に骨膜炎、右後脚に飛節軟腫。持ち前の闘争心も薄れ、心も体もボロボロの状態だった。天皇賞秋はその脚部故障の影響か6着。次のジャパンCでは体調不安により11着に沈んだ。雑草は今枯れ果てようとしていた。

満身創痍。脚部の不安、気迫も足りない。オグリの時代は終った。誰もがそう思っていた。しかしオグリの引退レースである有馬記念にはなんと17万人を超える観客が集まった。そう、それでもオグリ最後の勇姿を目に焼き付けに訪れたのだった。4番人気に甘んじたオグリは天才武豊を背にレーススタート。序盤6番手につけてそのまま好位をキープ。第3コーナーから馬群の外を通り前方へ進出開始。オグリは最後の直線残り2Fで先頭に立つも、メジロライアンとホワイトストーンが襲いかかる。凌(しの)げるのか。もはや全盛期の力は無い。場内は悲鳴に近い絶叫に包まれた。その時だった。オグリは一瞬の火花の如く、競走馬として消えかけた微かな闘争心を再び燃焼させた。メジロライアンが4分の3馬身まで迫るなか、炎のオーラを纏(まと)ったオグリは先頭でゴールを駆け抜けた。
その刹那、走馬灯のように色とりどりの思い出が蘇る。決して恵まれない馬体で産まれた幼少期。それを克服し、笠松での縦横無尽の活躍、中央ではG1も獲った。そして怪我、挫折。お前は終わったと周りは言う。負けない。そんな想い達を胸にオグリは駆け抜けた。これがオグリ最期の意地。雑草魂の意地。奇跡が起きたのではない。彼、自らが起こした奇跡だった。

生涯成績(22.6.1.3)

こうしてオグリは2年ぶりとなる有馬記念制覇をラストランで飾った。脚も体も闘争心も限界に近かった。このレースは「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ伝説となった。レース後、スタンド前でウイニングランを行った彼に向け、観客から「オグリコール」が響き渡った。オグリ!オグリ!いつまでも、いつまでも、中山の冬空に向かって。。

〜完〜

追伸
2010年7月3日。オグリキャップは星となった。笠松の、地方の夢を一身に背負い頑張った。そしてお前は諦めない心と、奇跡は起こすものだと教えてくれた。ありがとうオグリキャップ、いつまでも安らかに。。。

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